内田樹著『生きづらさについて考える』を読みました.

先日,内田樹先生の『生きづらさについて考える』(毎日新聞出版)を読みましたので,備忘録として,投稿します.

本書の特徴として何よりも真っ先に指摘したいことは文字が大きくて読みやすいということ.これは,視力が衰えてきた私達の年代にとっては極めて重要で,有り難いと感じたところです.

内容に関しては,いつも通り深く考えさせられる言葉がいくつもあって,これから何度も手にする本になりそうです.特に,「情理を尽くして説く ー 書き手に求められているもの」には,学生の皆さんに是非読んでおいてもらいたい内容がありましたので,ご紹介します.

私たちが論理の筋目を通し,論拠を示し,出典を明らかにし,情理を尽くして説くのは,読者が身内ではないからだ.自然科学の論文は精密なエビデンス(科学的根拠)と厳正な理論に基づき,主観的願望を介入させないように書かれているが,それは同じ分野の専門家たちの厳しい査定的なまなざしを想定しているからである.文系の物書きにはそれほどの学術的精密さは求められないけれども,「情理を尽くして説く」という構えは分野にかかわらずものを書く人間が手放してはならない基本ルールである.

内田先生の書物でいつも楽しみにしているものに「まえがき」と「あとがき」があります.本書に収められている多くの文章は何らかの媒体で発表されたものを加筆・修正したものなのですが,「まえがき」と「あとがき」は,当然ながら,書き下ろしとなりますので,新鮮ですし,語りかける文体にも惹かれるところがあります.本書においても,その「あとがき」の中で「豊かで安全なのだけど,なぜか子どもが生まれない国」(日本を含んでいます)の共通点が指摘されていて,目から鱗が2,3枚は落ちました.いや,本当に.

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内田樹著『呪いの時代』読了。

内田先生の新刊『呪いの時代』を読み終えました。印象的だった文章を幾つかご紹介します。

「僕達は誰でも自分の知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価する傾向にあります。」(研究者として胆に命じておきたい言葉)

 

「ほんとうにその人の知的枠組みを根底から作り替えようと望むのなら、その人の知性を信頼するしかない。その人が自ら進んで自己超克を試みる可能性を当てにするしかない。」(教員として大切にしたい言葉)

 

「私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け入れることへ、傷つけることから癒やすことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトしていくべき時期が来た、と私は思っている。」

キャンパスハラスメント防止研修会に参加しました。

本日本学大講義室で開催されたキャンパスハラスメント防止研修会に参加しました.

研修会では,NPOアカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク代表理事・奈良県立医科大学の御輿先生の講演「ハラスメントのない大学づくり」があり,実際に起こった多くの事例を紹介していただきながら,ハラスメントをなくすために大学がすべきこと,構成員がなすべきことについて解説していただきました.

「ハラスメント」という言葉を聞くと,内田先生の文章「呪いのコミュニケーション」(『子どもは判ってくれない』文芸春秋(2006))を思い出します.これは,田口ランディ氏の「呪いのことば」というエッセイを引用しながら書かれたもので,特に強く記憶に残っています.読み返しながら,印象的な箇所を拾い上げてみました.

「ハラスメント」というものも,おそらくはほんらいは「それにきっぱりと答えることのできない種類の問いかけや要求を,身近にいる人間から執拗に繰り返されることによって,生気を奪われ,深い疲労を覚えること」という事況をさしていたのではないだろうか.

しばしば,「呪い」をかけている人間自身は(意地の悪い教師がそうであったように),自分の行動を動機付けているのは教化的な善意だと信じている(場合によっては「愛情」だとさえ).

「ハラスメント」的呪詛の根にあるのは,「他人の生き方に影響を与えたい」という「関係への渇望」なのではないかと私は思う.

「呪いとしてのハラスメント」を,日常的にそれと知らず行っている人間たちに共通するのは,この「コミュニケーションの欲望への節度のなさ」ではないかと私には思える.

他人を愛し,その身を気遣うという配慮の気持ちと,「こんなにおまえを愛し,気遣っているのに,どうしておまえにはその真意が分からないのだ」という他者を縛りつける「呪いの言葉」のあいだには,ほんとうにわずかな距離しかないのである.どこまでが「愛と気遣い」であり,どこでボーダーを踏み越えた「節度を失ったコミュニケーションの要求」が始まるのかを一義的に確定することはおそらく誰にもできない.

さしあたり私たちにできるのは,愛着と呪詛の境界線がかぎりなくグレーであるという事実を見つめること,もし「深い疲労感」を与える人間がいたら,その人は「呪い」をかけているのだと知ること,そして,できうるかぎりすみやかにその関係から離脱すること,これに尽きると思う.

キャンパスハラスメント防止研修会
キャンパスハラスメント防止研修会

教育の成果について

内田樹先生の『最終講義』技術評論社(2011)を読み終えました。その中で、内田先生が「教育のアウトカム(成果)」について述べておられましたので、ご紹介します。

教育のアウトカムというのは、教育を受けたものが自分の人生を回顧したときに自己決定するものです。学校側が「これこれの有用な知識を教えてやったじゃないか」といくら言い立てても、習った側が「そんなこと、教わった覚えはないね」と言えばそれっきりです。逆に、教師に教えた覚えがなくても、学生の方が「こんなに素晴らしいことを教わりました」と言えば、それは教育のアウトカムに計上するしかない。

おっしゃる通りだと、私も思います。

脳の機能は、「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化する。

内田樹先生が、脳科学者・池谷先生から聞いた興味深い研究成果。学問の本質的な部分を指摘しているように思います。以下に引用しておきます。(出典:内田樹の研究室

“脳の機能は、「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化する。” 続きを読む

「邪悪なものの鎮め方」読了

出張の際の移動中に読もうと思って購入した「邪悪なものの鎮め方」(内田樹著)を読み終えました。このサイトでこれまで紹介してきた内田先生のブログ記事が数多く収められています。”The very best of Uchida’s essays”といった感じでしょうか。お薦めです。

ちなみに、文章中に「のだめネタ」が隠れています。お読みの方は是非探してみて下さい。

労働について(再び)

現在就活中の皆さんにお薦めします。だまされたと思って、一度読んでみてください(少々長いですが)。「働く」ことが楽しみになるはずです。

労働について 内田樹の研究室.

学びについて(再び)

学期末テスト期間も終盤に差し掛かり,修論審査,卒論提出・発表会,入試,等々,学内では行事が目白押しです.研究室の修士2年生,学部4年生達も,文字通り目の色を変えて,ラストスパートをかけているところです.

論文を纏める段階ではじめて自分が何を知ろうとしていたのかに気付くことがあります.彼らもそれを体験しているのではないかと思います.それ自体は決して悪いことではなく,そもそも「学び」とはそういうものだと考えたほうが自然なのかもしれません.内田先生曰く,

私たち自身が経験的に熟知しているように、私たちの学びへの意欲がもっとも亢進するのは、「これから学ぶことの意味や価値がよくわからない」のだが、「それにもかかわらずはげしくそれに惹きつけられる」状況においてである。

(中略)

扉の前に扉の向こうに何があるか、自分が進む廊下の先に何があるのか、それを学生たちは事前には開示されていない。自分の判断で、自分の手でドアノブを押し回したものだけに扉の向こうに踏み込む権利が生じる。どの扉の前に立つべきなのか。それについての一覧的な情報は開示されない。それは自分で選ばなければならない。(内田樹)